瓦のはなし

4.日本の瓦 その2

その後室町時代に南都寺院の復興や京都五山の再建と創建で瓦の技術は向上していったようである。桃山時代になると、戦国の武将達によって火に強い瓦が城に使われるようになった。安土城の瓦は明の製瓦法を伝えたもので、明人一観が織田信長に命ぜられて作ったものである。木型と粘土との間に雲母粉を使うことと、瓦を燻して焼く(燻し瓦)方法で、これらの方法は次第に広まっていった。

泉佐野ふるさと町家館・屋根
泉佐野ふるさと町家館・屋根

泉佐野ふるさと町家館・本瓦葺
泉佐野ふるさと町家館・本瓦葺

泉佐野ふるさと町家館・桟瓦葺
泉佐野ふるさと町家館・桟瓦葺

江戸時代において江戸の武家屋敷は瓦葺きであった。一方、一般庶民の家は「禁行令」のもと板葺きや昔ながらの草葺きであった上に町家が建て込んでいたため多くの火災に見舞われた。しかし、幕府は民家は当然のこと、国持大名に土蔵以外の建物の瓦葺きを禁止していた。しかし、この「禁行令」も60年程で廃止され城郭や寺、武家屋敷に限られていた瓦屋根は民家にも使われるようになっていった。

延宝2(1674)年に近江三井寺の瓦師西村平兵衛が本瓦葺きの瓦よりも軽くて安価な瓦を作るために創案したと伝えられているのが桟瓦である。丸瓦と平瓦が一体となった形で、丸瓦に相当する部分を「桟」といい、ここが重なる部分となる。この桟瓦は近世後期の「近世風俗誌」(1853年)によると、江戸では「サンカワラ(桟瓦)」といい、京阪では「勘(簡)略葺き」と呼ばれ、民家を中心に町屋の瓦として、幅広く使用され普及するようになっていった。

このようにして瓦が日本に伝わり、また歴史的な背景の中で育まれ、そして新たな形の瓦も各地に広まり、町家や農家などの屋根を形作っていった。